人生の終わりはどうあるべきか? Being Motal

著者:Atul Gawande
ハードカバー: 282ページ
出版社: Metropolitan Books; 1版 (2014/10/7)
ISBN-10: 0805095152
発売日: 2014/10/7
適正年齢:PG15
難易度:中級(日本の学校英語でよくわかる英語)
ジャンル:ノンフィクション/エッセイ
キーワード:高齢者医療、終末期医療、エンドオブライフケア、死、老人ホーム, Nursing Home
媒体について:オーディオブックに適している本(ゆったりとしたわかりやすい発音)キンドルでも読みやすい。

全米図書賞の最終候補になったComplicationsの著者で外科医のGawandeは、この最新作で高齢者医療と終末期医療のあり方について語っている。

最初のパートは、個人の人格や尊厳を無視したようなNursing Home(老人ホームのようなもの)で人生の最期を過ごす老人が多いアメリカの現状への問題定義だ。

一般的に読者の評価は高く、私が以前から疑問を抱いている高齢者医療のあり方を取り上げてくれたのはとてもありがたい。けれども、私は全体的にモヤモヤした感じを抱いた。

私が一番気になったのは、家族が家で老人の世話をするのが当たり前だった昔のシステムをGawandeがノスタルジックに語ることだ。彼は冒頭で110歳近くまで自宅で家族に囲まれて生きたインド人の祖父Sitaram Gawandeに触れている。家族伝来の土地で農業をしてきた彼は、一生のうち3人の妻を持ち、亡くなるまで仕事もしていた。

アメリカ生まれのGawandeが祖父に初めて会ったときにはSitaramはすでに100歳以上で耳も遠く、足もおぼつかない状態だった。けれども家族からは経験を積んだ家長として尊重されていた。それを見て、Gawandeは感動を覚えたようだ。次のような彼の文章からも「老人はこう扱われるべきだ」という気持ちが滲み出ている。

For most of human history, for those few people who actually survived to old age, Sitaram Gawande’s experience was the norm. Elders were cared for in multigenerational systems, often with three generations living under one roof. Even when the nuclear family replaced the extended family (as it did in northern Europe several centuries ago), the elderly were not left to cope with the infirmities of age on their own. Children typically left home as soon as they were old enough to start families of their own. But one child usually remained, often the youngest daughter, if the parents survived into senescence. This was the lot of the poet Emily Dickinson, in Amherst, Massachusetts, in the mid-nineteenth century. Her elder brother left home, married, and started a family, but she and her younger sister stayed with their parents until they died.

かつては三世代くらいが同居して老人の世話をするのが普通で、核家族化してきた西洋でもかつては子供のひとり(たいていの場合は末娘)が老いた両親の世話をしていた。著者が紹介しているように、19世紀半ばのアメリカの詩人エミリー・ディキンソンもそうで、兄は家を出て結婚したけれども、エミリーと下の妹は両親の家に残って世話をやいた。父親は71歳で亡くなったときには姉妹はすでに40代になっていて、ふたりともついに結婚はしなかった。

老人の世話をやくためにエミリーのような女性が若い人生を犠牲にしてきた過去についてGawandeが何か言ってくれるのかと待っていたのに、結局そこの部分には触れてくれなかった。それどころか、「子供が老人の世話を最後までやく」という過去の姿に肯定的なままなのだ。

もちろん、老人の立場からはそうだろう。たぶんGawande自身や男性読者はGawandeの祖父の視点で人生の最期のあり方を考えられるのだろうが、女性の私はエミリー・ディキンソンと妹の視点になってしまう。すでに生きたいように生きた世代(特に男性)がそのままの生活を続けるために、彼女たちは若い人生を犠牲にしたのだ。

だから私はGawandeのようにノスタルジックにはなれない。

そうではなく、「娘の人生を犠牲にしない自分の最期を考えなくちゃ」と思った。

二番目のパートは、不治の病に罹患したときの残りの人生の生き方についてで、こちらのほうが私の心に響いた。この寸前に、私がとても尊敬する『The Emperor of All Maladies』by Sidhartha Mukherjee のドキュメンタリーを観たので、「自分だったらどうするか?」という問いかけは心の中に重く残っていた。

かつての医療は悪い予後を患者本人には知らせなかったし、「よく死ぬ」ことよりも「最期まで治療する」「最期まで闘う」ことに集中していた。私もかつて病院勤務の時代にここに疑問を抱いたものだった。死期が迫っている場合には、辛い治療をやめて「よく死ぬ」ための援助に切り替えるべきなのだ。人生の最期を治療で苦しいものにしてはならない。

どんな人であれ、人は必ず死ぬ。その事実から目を背け続けることはできない。

私も今年になってからいくつか健康に問題があることがわかった。いずれも深刻ではないし、致命的なものではないけれど、共通しているのは「なにをやっても、元にはもどらない」ということだ。

現状が悪化しないように治療やリハビリはしっかりしなければならない。でも、「治りはしませんよ」とはっきりと言われて「ああ、そういう歳になったのだな」と実感した。

雪が溶け始めた4月の森でジョギング再会
雪が溶け始めた4月の森でジョギング再会

その後で、ようやく雪が溶けはじめ、大好きな森のジョギングを再会した。

木の根っこや石が雪や落ち葉に隠れているトレイルの足元はまだまだ危ない。捻挫したり、転ばないように気をつけていると、走るというより歩く部分が増える。現在の私の目標は「スピードの向上」ではない。「怪我をせずになるべく長くこの楽しみを続ける」ことだ。

走りながら頭に浮かんだのが「自分の番がきたら、森で死にたい」という強い願望だ。

自宅のベッドより、木や土の上のほうがいい。太陽が燦々と降り注いでいる野原でもいい。無理やり家族を呼び寄せなくても、外ならふわりと空中に浮いて、会いたい人みんなに会いにいけそうだ。「そのためにはどうしたらいいんだろう?」……なんてことを考えながら走っていた。

もちろんまだ死にたくはないけれど、いつかはやってくる自分の終わりを考えるのは、当たり前のことなんじゃないかと思う。

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