「紳士とは何か?」貴族とともに消え去った文化と美意識への哀愁が漂う A Gentleman in Moscow

作者:Amor Towles (Rules of Civility)
ハードカバー(ソフトカバーもあり): 480ページ
出版社: Hutchinson /Viking
ISBN-10: 0091944244
発売日: 2016/9
適正年齢:PG15
難易度:上級レベル
ジャンル:歴史小説/文芸小説
キーワード:ロシア革命、自宅軟禁、社会国家樹立、メトロポールホテル・モスクワ、貴族、紳士、ロシア文学

1917年のロシア革命でロシアの貴族たちは死刑やシベリア送りを逃れるために国外に逃亡した。
だが、若き伯爵のアレクサンダー・ロストフは、住んでいたパリから帰国し、祖母の逃亡を援助した後でモスクワに残った。メトロポールホテルで静かに暮らしていた伯爵は22年に逮捕され、悔悟がない貴族としての有罪判決を受け、ホテルでのhouse arrest(自宅軟禁)刑を宣告された。

それまでは豪華なスイートで暮らしていた伯爵だが、家族に代々伝わる貴重品のほとんどを国家に剥奪され、メイドたちが過去に使っていた屋根裏の小さな部屋に移されてしまった。高級ホテルとはいえ、そこから一歩でも足を踏み出したら逮捕されて処刑される終身刑だ。

境遇が変わっても紳士の行動規範に従って毎日を丁寧に生きようとする伯爵だが、32歳の若い彼の前には長く空虚な人生が広がっていた。だんだん狭くなる世界に絶望して自殺を決意した伯爵だが、いくつかの偶然の出会いがそれを止めた。
ホテルのすべての秘密を知る少女ニーナ、野望と劣等感が共存する女優のアナ、最高級の味とサービスに誇りと情熱を抱くレストランのシェフとメートル・ドテル(支配人)、ある事情で住み着くことになった幼い少女ソフィア……。彼らが伯爵の人生を豊かにし、伯爵も彼らの人生に影響を与える。

作者のTowlesは、仕事で世界中のホテルに泊まってきたが、何度か訪れたスイスのホテルで見覚えがある顔ぶれに気付いた。まるで、そこに住みついているかのようだ。そのとき、ロシアではホテルでの「自宅軟禁」の罰則があったことを思い出し、この物語の枠組みを作ったという。

革命後のロシアは、貴族だけでなく、貴族文化によって栄華を極めた芸術や文化を悪として拒否した。
現在でも、富裕層すべてを「庶民から搾取する悪者」として批判する者が少なくないが、それは単純すぎるし、危険な考え方ではないだろうか。素晴らしい文学、絵画、音楽、料理などは、貴族や金持ちなしには生まれなかったものだ。それらすべてを否定するのは、人間性の否定でもあるような気がする。「ジェントルマン」の行動規範もそうだ。

伯爵は、朝目覚めてすぐにストレッチなどのエクササイズをして、コーヒー豆をひき、お決まりの朝食を食べてからロビーで新聞を読む。そして、夕食のメニューを熟慮してから慎重にワインを選ぶ。貴族として慣れた伯爵のホテル暮らしを読んでいるだけでうっとりと楽しめるが、それよりも心地良いのが、伯爵の骨まで浸透している「紳士らしさ」である。それは、「下層階級の者を見下す」というステレオタイプではなく、「文化や伝統を重んじる」ことや「礼儀正しさ」である。ジェントルマンとしての揺るがない自信があるからこそ、伯爵は自分の才能を活かすためにウエイターになる。そして、誇りを持ってその仕事を完璧にやり遂げるのだ。

ホテルに何十年も閉じ込められても「ジェントルマン」であり続ける伯爵を読むと、心の中だけでもジェントルマン(あるいはプリンセス?)になりたくなる。

だが、ときおりその「紳士の定義」が伯爵の人間関係を邪魔することもある。「異なるボタンを別々の箱に入れる」(compartmentalizement 、つまり相手との人間関係をきっちり区分してしまう)というものだ。でも、その欠陥を指摘された伯爵は、「紳士らしく」行いを変える。その回答が最後のシーンにも現れている。

何度も出てくる映画『カサブランカ』や最後のシーンなど、ハードボイルドが好きなロマンチストの男性には必読だ。

6 thoughts on “「紳士とは何か?」貴族とともに消え去った文化と美意識への哀愁が漂う A Gentleman in Moscow

  1. はじめまして。
    A Gentleman in Moscow、社長がブログで最近読んだ面白い本に挙げていて、日本語で出てないかな?と探していたらこちらに辿り着きました。

    最近ロシアにも旅行に行ったのでタイムリーで、とても読みたいと思っていたので、本当にこちらのあらすじにたどり着けてうれしいです。

    渡辺様の文章を読んでジェントルマンにすごく好感を持ちました。好感を持てる主人公に出会えるのは幸せですし、内容もとてもおもしろそうだと思いましたが、まだ翻訳版は出ていないようなので、また時々出版状況を調べようと思います。

    1. こんにちは。
      この小説は、ほんとうに「読書体験」がすばらしい作品で、夫にも「絶対に好きになるから」と薦めてよろこばれました。
      翻訳版もきっと出ると思います。そうなったら、ぜひお読みください。

  2. 渡辺さんの書評を読んで以来ずっと気になっていましたが、先月図書館で借りて、やっと読むことができました。待った甲斐がありました。軽妙な描写にくすくす笑いを続けながら、チャーミングな登場人物たちの人間ドラマにほろりとしたり、時にはらはらさせられる場面があったりで、読むのが本当に楽しい本でした。特に、前に出てきたエピソードが後で変化球になって再登場して、「おっ、そう来たか。うまい!」と唸らされることが何度もあったのがたまりませんでした。

  3. この人、本名は何だっけと思わせるBishopを除き、どの登場人物も魅力的で、読了後の余韻が素晴らしい。

    幼い頃から条件反射の様に身に付いた”Gentleman”としての行動規範は、例えばNinaからのプレゼント、誰も見ていなくとも約束の時間まで開けることをしない行為に現れますが、ある時は堅苦しい制約となり、Anaと伯爵の世界、Sofiaと伯爵の世界を完璧に分離し、「異なるボタンを別々の箱に入れる」行動となっているところが面白い。

    PS.
    ’30年代のマンハッタンを舞台とする、同じ著者に依る”Rules of Civility”も、優れた人物描写に魅了されます。唯一残念なのが、寡作で次の作品が予想できないことでしょうか。

  4. blancasさま

    コメントありがとうございます。
    本当に人物が魅力的で、余韻が素晴らしい小説ですよね。
    ちょっとオールドファッションな感じの上品な小説がもっと出てきてほしいと思うのですが、今の流行とはちょっとズレているので難しいのかもしれませんね。

    作者には長生きしていただきましょう!

Leave a Reply