アメリカでベストセラー上位に食い込んだ「ほぼ日」の『岩田さん』 Ask Iwata

編集:Hobonichi 翻訳:Sam Bett
Publisher : VIZ Media LLC
アメリカでの刊行日:April 13, 2021
Hardcover : 176 pages
ISBN-10 : 197472154X
ISBN-13 : 978-1974721542
読みやすさ:5
ジャンル:翻訳書、エッセイ、伝記、ビジネス

アメリカで出版された本の売れ行きの85%を把握している「ブックスキャン」の4月11日から17日までの報告を読んでいて、ハードカバーのノンフィクション部門で『Ask Iwata』が全米で8位に入っているのを知った。著者名の欄に翻訳者のSam Bettの名前が間違って記入されていたが、これは4月13日にアメリカで発売されたほぼ日刊イトイ新聞編集の『岩田さん』の英語版である。このレポートでは、13日から5日間に11,569冊が売れたということだ(次の週からはこの上位ランキングには入っていない)。

これは部外者が想像するより遥かに大きな達成である。

まず、英語圏、特にアメリカの市場は経済的に魅力的なだけでなく、世界に名前が知られる場でもある。世界中の誰もが狙っているがゆえに競争も非常に激しい。「売れる」と説得できなければアメリカの出版社には相手にされないので、翻訳出版にこぎつけることだけでも相当な達成である。『Ask Iwata』は、その難関を乗り越えただけでなく、英語圏で名前が知られている作家に混じって上位に食い込んだのだ。

2019年刊行の『岩田さん』は、ほぼ日刊イトイ新聞によると、(2015年に亡くなった)「任天堂の元社長、岩田聡さんのことばを集めた本」であり、「ほぼ日刊イトイ新聞に掲載されたコンテンツや、任天堂公式ページ『社長が訊く』に掲載された岩田さんのことばを抜粋して再編集。宮本茂さんと糸井重里への特別インタビューも収録」という内容だ。

日本では糸井重里さんや「ほぼ日」を知らない人はほとんどいない。「ほぼ日」独自の文体にも馴染みがあるので、日本の読者はある程度の予測と期待をしてこの本を手に取ったことだろう。しかし、アメリカ人は糸井さんを知らないし、「ほぼ日」も知らない。

回想録や伝記はアメリカで良く売れるジャンルだが、回想録が好きなアメリカの読者は幼い時から経時的に進行する内容や詳細が好きで、500ページくらいある長い本も好きだ。ところが、『岩田さん』の場合は、岩田さん自身の発言と第三者からの伝聞を集めた短篇集、ときには詩集のような雰囲気であり、とてもシンプルで、176ページしかない。つまり、アメリカでよく売れる回想録のジャンルにはまったくあてはまらない。

また、海外で翻訳作品を出版する場合、言語の違いだけでなく、読者の文化背景の違いが大きな壁になりがちである。共通体験がない場合には、どんなに上手に言葉を翻訳しても通じないことがかなり出てくる。小川洋子さん、多和田葉子さん、東野圭吾さんといった日本人作家のファンもいないわけではないが、多くのアメリカ人が知っている日本人作家となると、村上春樹さんと近藤麻理恵さんくらいである。『岩田さん』はそれらの作家の本ともまったく異なる。

ほぼ日の『岩田さん』は、いくつもの点で、翻訳出版の困難さが予想できる本だと思った。だから、この本がアメリカで出版されだけでなく、アメリカ人読者から好意的な評価を得ていることに驚き、興味を抱いた。そこで、海外への版権展開を担当された株式会社タトル・モリエイジェンシーの取締役、玉置真波さんにいくつか質問してみた。

古賀史健さんと岸見一郎さんの『嫌われる勇気』(英語版タイトルThe Courage to be Disliked)の海外版権展開もされた玉置さんは「ご指摘の通り、日本ではほぼ日さん、糸井さん、岩田さんの交流について広く知られていますが、その文脈が共有されていない海外の商業出版市場において、書籍『岩田さん』をどの程度、展開できるのか、当時ははっきりしていませんでした」と認めたうえで、全世界への展開を念頭に「版権を展開するための調査を開始し、NYの任天堂ショップにも足を運び、『岩田さん』の展開イメージができたところで社内チームをつくりました」と準備に時間とリソースを費やされたことを語った。

『Ask Iwata』をアメリカで刊行したのはマンガやアニメの出版で知られるVIZ Mediaだが、それは最初から出版社を限定したわけではなく、一般書の出版社を含めてアプローチした上での結果だということだ。

糸井さんやほぼ日を知らないアメリカの読者がこの本に惹かれたのは「任天堂の岩田さん」へのファン意識が強いように感じる。そこで、任天堂のファンだけをターゲットにしたニッシュなマーケティングなのかと思って尋ねてみたのだが、玉置さんは「出版社の戦略について詳細を知り、お話しする立場にはありませんが、英語版を待ち焦がれていたファンの方にしっかり出版社さんが届けられた結果だと思います。エージェントの立場からお答えいたしますと、本書はゲーム関連書やビジネス書などジャンルの枠にはまらない、従来の自伝ともスタイルやテイストが異なる本です。一つのプロジェクトに共に取り組んだソウルメイトとの出会い、生涯をとおして啓発しあう愉しみと尽きない話、敬意を伴う友情を慈しむことから生まれた本だと捉えています。読んだ後に、必ず誰かに感想を伝えたくなる本だと思いますので、日本同様に海外でも口コミで広まり、多くの人に読み継がれるロングセラーになるのではないかと思います。本が出版されたことによって、初めて岩田さんを知ったという方にリーチできれば、今現在のファンを超えて裾野が広がる可能性があると思います。」という返事だった。

確かに、ジャンルの枠にははまらないし、「ソウルメイトとの出会い」は重要な部分かもしれない。というのも、全米図書賞の翻訳文学部門で受賞した柳美里さんの『JR上野駅公園口( Tokyo Ueno Station)』や村田沙耶香さんの『地球星人(Earthlings)』は、いくつかの大手メディアで評価されて話題になったものの読者の批評は厳しい。Goodreadsではいずれも平均3.5前後の評価しか得ていない。それらと比較し、『Ask Iwata』の場合は「構成がほぼ皆無」「深さに欠ける」という意見はあるものの、Goodreadsでは平均4.3で、Amazonだとほぼ5.0の高い評価なのだ。

読後の感想を語っているYouTubeもいくつか観てわかったのは、アメリカの読者がこの本に求めているのは完成度が高い「伝記」ではないということだ。任天堂のゲームで育った人たちが『Ask Iwata』を通じてこれまで知らなかった岩田さんの人間性や人生哲学に出会えたことに喜びを覚えている。つまり、この本で読者は「ソウルメイト」と出会う疑似体験をしているのだ。糸井さんについても、彼に感情移入することで、岩田さんとの友情を自分のことのように体験している。糸井さんが岩田さんについて書いたところで「涙ぐんだ」という読者もいる。それらの感想を自分と同じようなファンとシェアすることにも喜びを感じているようだ。

アメリカで売られている回想録のジャンルにあてはまらないからこそ、アメリカの読者、特に任天堂と岩田さんのファンは「本物らしさ」を感じたのかもしれないと思った。

日本語と英語で同じ部分を少し読み比べてみたが、英語版の翻訳にはアメリカの読者がすんなり理解できるような努力がいくつも感じられた。やはり翻訳者は重要だ。

そういう感想を伝えたところ、玉置さんは英語版について翻訳者のトライアルを実施したことを教えてくれた。「『岩田さん』は、ほぼ日さんの編集者さんの手によって本として完成した、ほぼ日さんらしさが大切な作品だと思いまして、翻訳者さんは(どの作品でもそうですが)とくにマッチングが鍵になると思いました。翻訳者のサムさんがベストマッチでした」ということだ。

玉置さんがこの本の版権展開を引き受けたのは日本語の『岩田さん』の刊行前のことで、アメリカで『Ask Iwata』が発売されるまでに約2年かかったことになる。『Ask Iwata』が世界で最も競争が激しいアメリカの市場でベストセラーリストに入るまでにはこれほどの手間がかかっているのだった。

玉置さんは「版権ときちんと向き合って展開するためには、多くの人と手間、さらにはそれなりの投資がかかります。著者、出版社(売る側、買う側)、エージェントがそれぞれにビジネスを継続できる健康なビジネス環境を保つためには、全ての関係者の協力と理解が必要です」と語ったが、確かにこの英語版の成功からは関わっている多くの人々の努力の成果を感じた。

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エージェントについてもっと知りたい方は、次の書籍に玉置さんのお仕事の内容が含まれているということです。

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