企業が利益をあげるために故意に注意散漫にされてしまった私たち。ではどうすればいいのか? Stolen Focus

作者:Johann Hari
Publisher ‏ : ‎ Crown
刊行日:January 06, 2022
Hardcover ‏ : ‎ 368 pages
ISBN-10 ‏ : ‎ 0593138511
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-0593138519
適正年齢:一般(PG12)
読みやすさ:7
ジャンル:ノンフィクション、ルポ
テーマ、キーワード:社会現象、集中力の欠乏、スマートフォン、ソーシャルメディア、情報過多、情報操作、睡眠不足、ADHD

私が東京に住んでいた1990年代、日本に来たばかりの欧米人の友人が「日本ではホームレスでも新聞を読んでいる!」と驚いていた。電車の中でエロ漫画を堂々と読んでいる男性サラリーマンに呆れる人もいたが、多くの外国人は満員電車の中でも本を読み耽る日本人の姿に感心していた。1993年に日本を離れて海外で暮らすようになった私は、ある年に帰国して文庫本がスマートフォンに変わっていることに気づいた。そこで暮らしている人たちにとってはゆっくりとした変化だったかもしれないが、しばらく帰国していなかった私にとっては突然の変化であり、かなり異様に感じた。だが、その異様さが今では全世界で当たり前のことになっている。

レストランでスマートフォンばかり見ていて会話をしないカップル。息をのむような美しい風景に出会っても、スマートフォンで自撮りしてInstagramやTikTokに投稿するだけの人。スマートフォンをベッドルームに持ち込み、寝る寸前までスクリーンを見て、起きてすぐにスクリーンを見る人。食事中でも会話中でも、スマートフォンで通知が来れば中断して受信したメールや投稿をチェックする人……。それが2022年現在の普通の光景だ。現代人は注意散漫になっており、『Stolen Focus』に書いてある大学生を対象にした調査では、ティーンエイジャーがひとつのタスクに集中できるのはたったの64秒であり、ひとつのことに集中できる時間の中間値は19秒なのだという。成人も別の調査によると3分でしかなく、さほどましではない。

『Stolen Focus』の作者Johann Hariは自分が後見人になっている少年の行動に危機感を覚えたのだが、自分自身の集中力も欠けてきていることに気づいた。そこで、インターネットに繋がることができるスマートフォンとラップトップコンピュータを持たずに異国である米国マサチューセッツ州に出かけてバケーションをする実験を行った。苦労しながらもようやく集中力を取り戻したHariだが、以前の生活に戻ったら、ネットへの依存症も戻ってしまった。

そういう体験を通してHariが気づいたのは、この問題は「デジタル・デトックス」や「自分の考え方や態度を変える」という自己啓発本的なアプローチでは解決しないということだ。FacebookやGoogleのエンジニアがよく知っているのは、企業は人々をスクリーンに釘付けして離さないためのありとあらゆる努力をしていることだ。GoogleのエンジニアだったTristan Harrisは作者のHariにこう言う。「集中できないのはその人のせいではない。そういうふうに作られているのだから。人が注意散漫になることが彼らの燃料なのだ。(It’s not your fault youcan’t focus. It’s by design. Your distraction is their fuel.)」と。このシステムを変えないかぎりは人々の行動は変わらないというのが内情を知るエンジニアの意見であり、Hariの見解でもある。

集中力がなくなると、人々は本や新聞をじっくりと読んで深く考えることもしなくなる。また、人はハッピーな投稿よりも「怒り」を覚える投稿により時間をかける。Facebookのアルゴリズムは利用者をスクリーンに引き寄せておくために「怒り」を感じさせる投稿をプッシュしてきたのだが、その恐ろしい例が「怒りを誘発するフェイクニュース」がアメリカ大統領選挙に与えた影響だ。

企業は力を持っているので、彼らが自主的にシステムを変えることは望めない。

私たちから集中力を奪っているのはソーシャルメディアとEメールだけではない。睡眠不足や加工食品の影響も作者は語る。

では、私たち個人はどうしたらいいのだろうか?

作者の文章が皮肉なことに注意散漫なので興味深い事が多く書かれているにも関わらず要点が心に残りにくい。彼はまとめの部分で大きく3つのことを提唱する。それらは、「監視資本主義を止める」「週4日勤務制にする」「子どもが自由に遊ぶことができる子ども時代を再生する」だ。

監視資本主義についての提唱は、先に述べたインターネット依存症に対するものだ。次の2つは、「自分が楽しめる活動をする」ことで心を自由に泳がせ、その結果集中力を得るという、インターネット前の時代に私たちが普通にやっていたことを取り戻すというものだ。「子どもが自分たちだけで外で自由に遊ぶことが許されない」という法律は日本とは異なるが、日本では別の意味でそういった「子ども時代」が欠乏しているかもしれない。

私はありがたいことにHariほどインターネット依存症ではない。集中力があるわけではない。幼い頃から白昼夢の癖があって注意散漫になりがちで、現在は加齢がそれに拍車をかけている。とはいえ、Hariとは異なり、旅行中や食事中は基本的にスマートフォンは使わない。努力しているのではなく、使う気になれない。どちらかというと、会話や食事の途中で相手がスマートフォンを見るとムッとするタイプだ。

この本を読みながら、同業とも言える作者と私に依存の差(注意散漫の差)が生まれた理由を考えてみた。思いついたのは次のような私の行動だ。

1) 2009年1月に始めたTwitterで初期に「これは依存症になる可能性があるメディアだ」と気づいて自ら制限する努力をした(Twitter初期である2010年刊行の『ゆるく、自由に、そして有意義に ストレスフリー・ツイッター術』でもそれについて触れた)。

2) Eメールのチェック、ソーシャルメディアのチェックを集中的にする時間帯を作る。私にとっては午前4時前に起床してからがこの時間。日本に住んでいる人と仕事でやり取りをするのにも適している時間帯。その後にチェックするのは、仕事の合間のコーヒーブレイクの時のみ。

3) 仕事でよく使うために緊急性があるFacebookのメッセンジャー以外は、Eメールを含めて通知はオフにしている。

4) Eメールやソーシャルメディアでの返事は基本的にノートブックパソコンでする。その癖がつくと、スマートフォンで返事をするのは時間がかかって面倒になるのでチェックもしなくなる。

5) 自宅でも旅行中でも、なるべく自然の中で毎日ジョギングかウォーキングをする。その最中にはソーシャルメディアもメールもしない。その瞬間を楽しむ。

私も「自己啓発本的なアプローチでは解決しない」というHariの意見には同感だ。ネット依存症はオピオイド依存症のように企業が自分たちの利益のために人々を犠牲にするように故意に作られたものだから。しかし、道義心で彼らが変わることはありえないし、規制も簡単には実現しないだろう。ゆえに、個人がそれぞれに自分を守るための努力をするのも必要だと思っている。

私たちの生活が壊れても、企業は救ってくれないのだから。

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