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とっつきにくく、けれども忘れられない2018年の意外なブッカー賞受賞作 Milkman

作者:Anna Burns
ペーパーバック: 368ページ
出版社: Faber & Faber
ISBN-10: 0571338755
ISBN-13: 978-0571338757
発売日: 2018/5/15(アメリカでは2018/12/4)
難易度:超上級(ネイティブでも読解力と根気を要するレベル)
適正年齢:PG15(特に問題となる描写などはない)
ジャンル:文芸小説
キーワード:1970年代ベルファスト、北アイルランド紛争、The Trouble
文芸賞:2018年ブッカー賞受賞作

2018年のブッカー賞受賞作Milkmanは、受賞作が発表された時点ではまだアメリカでは出版されていなかった。それほど多くの人にとって意外だったのだろう。

ブッカー賞は世界で最も「文芸賞らしい文芸賞」とみなされていて、候補になる作品には難解なものも多い。このMilkmanもそのイメージを裏切らず、とっつきにくく、読みにくい。

まず、プロットらしいプロットはない。

そして、かなりの数がある登場人物には名前がない。主人公は「middle sister(真ん中の妹)」で、タイトルになっているMilkman(牛乳配達人)は、牛乳配達人ですらない。そこに、主人公の母が恋心を抱いている本物の牛乳配達人はreal milkmanまで登場するからややこしい。主人公が付き合っているが公式の関係にするのを避けているような「Maybe-boyfriend(かもしれないボーイフレンド)」は、いつしか「(元かもしれないボーイフレンド)ex-maybe-boyfriend」になる。

登場人物に名前がないだけでなく、場所も時間も書かれていない。

だが、地元アイルランドやイギリスの読者だけでなく、1980年代にイギリスに3回住んだことがある私のような者にはこれが70年代の北アイルランド、ベルファストだとすぐわかる。読了後に作者のAnna Burnsについて調べたら、やはり私より2歳年下のベルファスト生まれの女性だった。

この小説に入り込みやすいように、この小説の背景を説明しておこう。

ベルファストがある北アイルランドは、1920年から「北アイルランドはプロテスタントによるプロテスタント国家」とする「アルスター統一党」政府が統治してきた。カトリック系の住民はプロテスタントの政府やプロテスタント系の住民から長年差別され、抑圧されてきた。そこに、差別されてきたカトリック系住民を守るためには武力行使も肯定するというIRA(アイルランド義勇軍)から分裂した「IRA暫定派」が加わり、血みどろの「北アイルランド紛争」にエスカレートした。有名な「血の日曜日事件」と「血の金曜日事件」が起こった1970年代のベルファストが、小説Milkmanの舞台だ。

主人公は歩きながら読書をすることが好きな18歳の少女だ。自分よりずっと年上のMilkmanから勝手にみそめられ、つきまとわれるようになる。牛乳配達人ではないがMilkmanと呼ばれるMilkmanは、テロ組織の指導者的立場にあるパワフルな存在でもあるようだ。自分が望まない相手から監視され、ストーキングされ、愛人関係になることをほのめかされる。彼女はMilkmanを嫌い、恐れているが、何もできないでいる。

「身体的な暴力を受けたのではないかぎり、自分に向かってあからさまに侮辱的な言葉を投げかけられたのではないかぎり、侮蔑の視線で見られたのではないかぎり、何も起こったことにならない。そういう基本ルールがある一触即発の社会で育てられた18歳の自分が、そこに何もないことに対して攻撃を受けていると言えるだろうか?」と彼女は思う。だから、かなり年下の主人公に対して不健全な性的感心を抱いているような一番上の姉の夫が彼女とMilkmanが愛人関係にあると決めつけて説教をしても何も言い返さない。

労働者階級の家庭で育ちながらも、豊かな知性を内包していることがわかる主人公だが、男たちが安易なヒロイズムにかられて互いを殺し合い、隣人同士が疑いをかけ、噂を流し、女は若くして結婚することが要求され、結婚の失敗や離婚は許されず、未亡人が貧困の中で数多い子どもたちを育てる社会では、18歳の利発な少女の内面などには誰も関心を抱かない。

何の関係もない相手と愛人関係にあると社会から決めつけられた主人公の日常は「不条理」そのものだ。
だが、その不条理は、70年代のベルファストではなく、同時期に日本で育った私も感じたものだ。なぜ我慢してきたのかと今になっては思うが、それはそういう「基本ルール(ground rules)だったからだ。複数のストーカーから監視され、深夜にそれを伝える電話を受け、性的なニュアンスの威圧をされ、心底怖いのに、誰にも訴えることができない。「何もされていないだろう?」とか「お前につけ込むスキがあるのが悪い」とかえって悪者にされてしまうことがわかっているからだ。Burnsの文章はわかりにくいかもしれないが、同じような体験をしている読者はきっと「私が感じてきたのはこれだ!」とわかると思う。

最初に読んだときには、「面白いのか面白くないのか、好きなのか嫌いなのかよくわからない小説」だと思った。イライラして放り投げたくなる部分と、ものすごく同感して「そのとおり!」と大声を上げたくなる部分が同じくらいあったから。だが、読後ずっと頭にこびりついて離れなかった。

彼女の内声には繰り返しも多く、くどいようにも感じるが、二度目に読むと、労働者階級の町で誰からも理解されない18歳の少女の鋭い視点や洞察力とストリートスマートな表現力に膨大なユーモアが含まれているのがわかる。

二度読みした今は、「ものすごく深くて、面白くて、好きな小説」だと胸を張って言える。

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