紙媒体の本ならではの体験を味わえる『S.』

著者:J.J. Abrams(企画・監督)&Doug Dorst

ハードカバー: 472ページ

出版社: Mulholland Books

ISBN-10: 0316201642

発売日: 2013/10/29

適正年齢:PG15(高校生以上)特に問題な部分はないが、中学生では状況がよくわからないだろう。

難易度:超上級(文章が難解というわけではなく、読みにくい構造だという意味)

ジャンル:実験的小説/ミステリ

キーワード:架空の小説・作家、J.J. Abrams、テセウスの船(Ship of Theseus)

S.というタイトルだけのシンプルな黒いブックケースは猿と船の絵がついたシールで封印されている。

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封印を切る前の期待に満ちた瞬間

そのブックケースの中から出てきたのは、『Ship of Theseus(テセウスの船)』というタイトルの布張りのハードカバーである。背表紙についたシールと表紙裏のスタンプからは図書館の本らしい。しかも1949年刊行の古い本らしく表紙はくたびれているし、中身のページは黄ばんでいる。

タイトルのページから余白をびっしりと埋めているのは、2人の異なる人物によるコメントである。どうやら、この二人は本を使ってコミュニケーションをとっていたようである。ひとりは、この本を高校の図書館から失敬した(という設定の)Ericである。

Ship of Theseus(登場人物の二人に倣って今後はSOTと呼ぶ)の著者とみなされているV.M.Straka(本も著者も、もちろんフィクション)は、その時代を代表する作家だったが、そのアイデンティティは現在も不明である。SOTを翻訳したCaldeiraとStrakaの関係も謎に包まれている。16歳のときにStrakaの作品の虜になったEricは、高校の図書館からこの本を拝借したたま返却せず、大学院でもStraka研究を続けていた。大学の図書館で置き忘れられていたSOTを見つけた大学生Jenは、「見つけた人はワークルームB19に戻しておいてくれ」という注意書きを読み、メッセージつきで本をワークルームに戻す。


この偶然の出会いをきっかけに、EricとJenは一緒にStrakaの謎を追求するようになり、個人的な悩みも打ち明け合うようになる。だが、EricはJenとなかなか会おうとしない。そこには、研究室の陰謀説も絡んでいるようなのだ。

 

以前から「電子書籍は紙媒体の本を殺す」とか「紙媒体の本のほうが素晴らしい」という意見を読むたびに、作る側のナルシスティックな意見だなあ、と反感を抱いていた。外出時のちょっと空いた時間や、家事の時間まで読書に費やせる電子書籍やオーディオブックに感謝している私は、「読者が求める変化を阻止することばかり考えず、紙媒体ならではの読書体験を楽しませてくれる本を作ってくれ」と思っていた。

なので、先日刊行された『S.』のことを知ったときには興奮した。

まあ、これをみてほしい。

 

 

ビデオでもお分かりのように、ページの間には、大学新聞の切り抜き、古い資料のコピー、写真、絵葉書、紙ナプキンに書いた地図などが挟み込まれている。

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このようにページの間に色々なものが挟まれている

そして、EricとJenのコメントは、インクの色でどの時期のやりとりかが分かるようになっている。

このように、古い本を手に取る楽しさがいっぱい詰まった本なのである。

期待たっぷりで読んだのだが、正直をいうと、ややがっかりした。もしかすると、私はこの本の読者として適切ではなかったかもしれない。

 

この企画を作ったのは、映画『スタートレック』の監督で、人気テレビドラマ『Lost』のクリエイターでもあるJ.J. Abramsである。本書でも彼は監督的な立場であり、SOTの文章を書いたのは、SF作家のDoug Dorstのようだ。

プロダクトとしての『S.』は文句のつけようがないほど素晴らしい。本の中に挟まれている新聞の切り抜きや、ウプサラ大学Strakaアーカイブ文書のコピーなど、非常に手が混んでいる。それらがEricとJenの謎解きに関わってゆくのを自分の手と目で体験するのは楽しい。だが、問題は、中心となる小説SOTとEricとJenの物語である。どちらも、浅くて、ひとつの作品を読み終えた後の深い満足感を与えてくれないのだ。

それは、小説としてはやはり問題ではないだろうか。

それなのに米国のアマゾン読者の感想が圧倒的に星5つというのが不思議でならない。

「いったいこの人たちは、ふだんどんな本を読んでいるのだろう?」

そんな疑問を抱いて星5つの感想を書いた人をチェックしてみたところ、これまで小説らしい小説を読んでいる人がほとんどいないのだ。どうやら彼らは、『スタートレック』や『Lost』を通してのJ.J.Abramsのファンらしい。

だが、理由はどうあれ、ふだん映画やドラマしか観ない人々をスクリーンから引き離し、しかも読書体験を楽しませたのであったら、『S.』は大成功だと言えるだろう。

 

ところで、「こういう面白い本があるけれど、知ってる?」と、S.をAsylumのプロデューサーに見せたところ、「ユダヤ教では、祈祷書にラビが書き込みを入れることは以前からあった。そういう伝統があるんだよ。この本は僕がデザインした新しい祈祷書を連想させるから見せてあげよう」と2015年発売予定のSiddurのガリ版を持ってきてくれた。

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知人がデザインしたユダヤ教の祈祷書(The Rabbinical Assemblyのサイトhttp://www.rabbinicalassembly.org/resources-ideas/lev-shalem-series/siddur-lev-shalemより抜粋)

世の中には、まだまだ知らないことが沢山あると思った出来事だった。

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