非キリスト教徒にも響くローマ教皇フランシスコのメッセージ The Name of God is Mercy

ハードカバー: 176ページ
出版社: Random House
ISBN-10: 0399588639
発売日: 2016/1/12
適正年齢:PG12
難易度:中級レベル(非常にシンプルでわかりやすい話し言葉)
ジャンル:インタビュー記録
キーワード:ローマ皇王フランシスコ、カトリック、慈悲、福音書

イタリアやアイルランドからの移民が多いボストンは、カトリック教徒が多い地としても知られている。
当然、私の周囲にもカトリック教徒が沢山いるが、長年親しくしているある友人は、教会を捨てた「元」カトリック教徒だ。

アイルランド系の労働者階級が住むボストン南部(通称サウジー)は、日本でも、クリント・イーストウッド監督の『ミスティック・リバー』、ジョニー・デップ主演の『ブラック・マス』などで知られているように貧しい住民が多い犯罪の巣窟だった。だが、アイルランド系のギャングたちも敬虔なカトリック教徒であり、その矛盾もボストンの文化のひとつだった。

約50年前にサウジーのアイルランド系の家庭で生まれた私の女友達(仮にAと呼ぶ)には、7人の兄弟姉妹がいた。姉の1人は高校時代にギャングレイプにあい、もう一人の姉はレズビアンであることを家族に明かした。だが、教会も家族も、レイプにあった少女とレズビアンを告白した少女を「sinner(罪をおかした女、姦淫をおかした女)」として責め、切り捨てたという。その後もずっと自殺未遂、自殺願望を捨てきることができずにいる姉たちを見て育ったAは、カトリック教会を離れただけでなく、嫌悪している。

2002年には、ボストングローブ紙が、カトリック聖教者による少年の性的虐待と、それを組織的に隠蔽してきた教会の内情を暴露し、ピューリツァー賞を受賞した。聖教者による児童の性的虐待スキャンダルは、それまでにも世界各地で起こっていたのだが、この件で一気に注目を集めることになった。

このスキャンダルは収まるどころか、さらに全世界に広まり、2005年に就任したローマ皇王ベネディクト16世への批判が高まって、辞任を求めるデモまで発生した。マネーロンダリングのスキャンダルも重なり、教会は信者をどんどん失い、ベネディクト16世は非常に珍しい「生前退位」を決意した。

そのベネディクト16世の後をひきついだのが、ローマ皇王フランシスコである。
就任後、フランシスコは、マネーロンダリングなどの金融犯罪と戦う命令を出し、聖職者による性的虐待についても、「カトリック教会は被害者の保護より教会の名誉と加害者の保護を優先している」と非難して、違反した聖教者への厳しい対応を勧告した。

そのいっぽうで、世界のリーダーに地球温暖化防止を呼びかけ、アメリカとキューバの国交回復の仲介役になり、同性愛についても「もし同性愛の人が善良であり、主を求めているのであれば、私にその者を裁く資格などあるだろうか?(If someone is gay and he searches for the Lord and has good will, who am I to judge?)」とも発言している。

これまでよりも、ずっとリベラルな皇王を、私の周囲にいるリベラルなカトリック教徒たちは大歓迎した。「ようやくカトリック教会はよみがえることができる!」と。

世界から注目を集めているこの新しい皇王から、バチカン専門のベテランジャーナリストがじっくり話をきいた記録が『The Name of God Is Mercy(神の名は慈悲)』という本だ。わずか150ページの小さな本だが、アメリカで静かなベストセラーになっているので手にとってみた。

本書は、繰り返しも多いし、まとまりもない。また、キリスト教徒に向けてのメッセージだ。しかし、そのメッセージから「神」という単語さえ取れば、世界のどの場所にいる人にも通じる内容だ。

たとえば、「ヨハネによる福音書」には、姦通の罪をおかした女性が登場する。モーゼの戒律では、石打ち刑で殺される重罪だ。キリストは、女性をまさに石打ちしようとする律法学者やファリサイ派に対して、「あなたたちのなかで、罪を犯したことのない者が、最初に石を投げなさい」と言った。全員がそこを去り、キリストは、「私もあなたを咎めない。立ち去りなさい。そして、二度と罪をおかさないように」と女に伝えた、という逸話だ。

この有名な逸話について、フランシスコ皇王は、これは女性を連れてきた律法学者やファリサイ派によるキリストへの「テストであり、罠」だと説明する。
「キリストが法にしたがって「石を投げなさい」と言えば、「お前たちの主は良心的だというが、この気の毒な女に対する仕打ちを見てみろ」と言えるし、「女を許しなさい」と言えば、「法に従わない」と責めることができる。「彼らは、この女性のことなどは気にもしていなかったし、姦淫の罪すら気にはしていなかった。たぶん、彼らのなかには自分自身が姦淫をおかした者がいただろう」と。ひとりきりでこの女の心に語りかけたいキリストは、そこで「あなたたちのなかで、罪を犯したことのない者が、最初に石を投げなさい」と言ったのだ。

フランシスコ皇王はこの本で何度も「慈悲」の解釈や「懺悔」について語る。だが、キリスト教徒ではない私にぴったりきたのは、次のメッセージだ。

現在私たちが住んでいる社会では、「ミスをおかすのはいつも他人」で「不道徳なのもいつも他人」「常に他人のせいであり、自分には責任がない」という態度が蔓延している。取材した作者が書いているように「(なにかあれば)すぐに他人の落ち度を咎め、人を許容したくない態度。人を簡単に糾弾するのに、人の苦悩に対しては深い同情で頭を垂れることがない」

最近、日本で最近話題になっている不倫や経歴詐称のニュースと、それに対する人々のコメントを目にするたび、もやもやした気分になっていたのだが、この本を読んでいる最中に、「ああ、私が感じていたのはこれだった」と霧が晴れたような気分になった。

不倫や経歴詐称のスキャンダルを起こした有名人を公の場で叩いている人は、「ヨハネによる福音書」で姦淫をおかした女性に石を投げようとしている人たちと同じなのだ。「罪をおかしたことがない者だけが石を投げなさい」と言われたら、誰も投げられはしないはずだ。「私は不倫なんかしていない」とか「経歴詐称なんかしたことはない」と反論する人がいるかもしれない。だが、「罪」とはそういうことに限らない。見栄をはったり、失敗をごまかしたり、他人の悪口を言ったり、ちょっとした嘘をついたりしたことは、誰にだってあるはずだ。

より良い人生を生きるためには、自分のことを棚に上げて他人に石を投げるのを楽しむより、自分とは相容れない人の過ちすら「慈悲」の気持ちで受け入れ、寛容さがある世界を作ることに専念したほうがいい……。

それを忘れそうになったら、もう一度読みなおしてみたいと思っている。宗教に属さないと決めている私にとっては、それがたぶん「懺悔」にかわる行為だろう。

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