O.J.シンプソン殺人事件でキャリアを失った検事の第二の人生 Blood Defense

作者:Marcia Clark
ハードカバー: 389ページ
出版社: Thomas & Mercer (Amazon Publishing)
ISBN-10: 1503936198
発売日: 2016/5/1
適正年齢:PG15
難易度:中の上から上級(ボキャブラリーは必要だが文章はシンプル)
ジャンル:法廷スリラー/犯罪小説
キーワード:女性弁護士、父娘関係、倫理観、殺人事件、法廷

シカゴでのBookExpo Americaを終え、ボストンのローガン空港に着いたのは深夜だった。いつも頼んでいるリムジンサービスの運転手ボビーは、根っからボストンっ子で大のお喋り。こちらは、疲れて舌が回らないのに、「今回はどこに行っていたの?」と元気いっぱいで質問を繰り返す。そこで、ブックフェアやそこで会った作家について話したのだが、ほとんどの作家については「知らないねえ」と首を振る。だが、「マルシア・クラーク」という名前が出たとたん、ボビーは「もしかして、O.J.シンプソン事件の検事?」と弾んだ声を出した。

40歳以上のアメリカ人にマルシア・クラークの名前を出したら、必ずボビーのような反応が戻ってくるだろう。

1994年6月、元アメリカンフットボール選手で人気俳優のO.J.シンプソンは、元妻のニコル・ブラウンと友人のロナルド・ゴールドマンを殺害した容疑で逮捕された。シンプソンは最初の拘留でいったん釈放されたのだが、殺人罪で逮捕状が出たときに、友人が運転する車で逃亡を企てた。2時間にわたる警察とのカーチェイスはテレビ中継され、全米がテレビに釘付けになった。私もそのシーンを鮮明に覚えている。

そのときの視聴者の反応は、「OJがやったに違いない」だった。
彼に不利な証拠も次々に出てきて、最初から有罪判決は明らかだという雰囲気が漂っていたのだが、マスメディアの取り扱いがエスカレートし、裁判は意外な方向に進んでいったのだった。

メディアが熱狂したのには次の二つの理由があった。
1)シンプソンが黒人で被害者の2人は白人。
2)シンプソンは全米で愛されていたスーパースター。
つまり、人種差別問題とスターの愛憎スキャンダルが微妙に入り組んだ、格好の材料だったわけだ。

また、シンプソンは巨額の費用で「ドリームチーム」と呼ばれる優秀な弁護団を雇った。このドリームチームは警察の不備や不手際を次々と指摘し、陪審員に人種差別が根底にある疑念を植え付けることに成功した。彼らはメディアを利用して味方につける技術にも長けており、その過程で破壊されたのが検察のマルシア・クラークだったのだ。

リムジンの運転手ボビーは、「彼女は、ひどい扱いを受けて、可哀想だったよね」と言う。たしかにそうだ。

裁判にかけられているのはシンプソンなのに、大衆紙やゴシップ雑誌はクラークの髪型から化粧を評価し、サントロペのビーチでトップレスになっている昔の写真を掲載し、二度目の離婚の協議中だということまで細かく報道した。この点では、検事のほうが容疑者より厳しく裁かれた印象がある。
情況証拠だけでなく、実際の証拠が揃っているにもかかわらず、シンプソンは無罪判決を受け、クラークの名前を耳にすることは少なくなった。

4年ほど前、意外なところでクラークの名前に再会した。
それは、大手出版社のアシェット社から受け取ったARC(出版前のレビュー用ガリ版)だった。『Guilt by Association』という犯罪小説の作者名を見たときには同姓同名の他人だと思ったのだが、内容を読んで本人だと確信した。主人公はクラークのようにロサンゼルスの女性検察官で、殺された同僚が担当していた難しい事件を引き継ぐという内容だ。有名人が書く小説の質はあまり期待しないのだが、デビュー作家とは思えないほどこなれた文章で、プロだけあって法廷の裏舞台が興味深い。

「人生がレモンを与えたら、レモネードを作れ(When life gives you lemons, make lemonade)」という英語のことわざが頭に浮かんだ。辛い体験を乗り越えて新しい人生を始めたクラークそのものだ。

「一発屋で終わらないだろう」という当時の私の予測は当たり、クラークは4年の間にシリーズ4作と関連短編2作を次々に刊行した。これはなかなかの多作だ。

Marcia clark
BEAにてMarcia Clarkと

今年BookExpo Americaに参加していたクラークに会い、最新作の『Blood Defense』を受け取った。
今回は女性検事の代わりに女性刑事弁護士が主人公だ。倫理観に欠ける犯罪者の弁護を引き受けているだけでなく、モラルに問題がある実父のために一肌脱ぐヒロインもまた、逸脱した倫理観を持っている。完璧に無垢な登場人物がゼロでロマンスのかけらもないスリラー(ミステリ)は、ある意味とても新鮮だった。

だが、私が驚いたのはそこではない。本書がアシェット社からではなく、アマゾンの出版社(ミステリ専門のインプリントThomas & Mercer)から刊行されたことだ。これは、キンドルを使った自費出版ではなく、れっきとした出版社だ。つまり、クラークが大手から乗り換えるほど、アマゾンは魅力的な条件を出したことになる。

最初にアマゾンが出版社を作ったとき、業界の多くの人々はアマゾン出版社から出版する作家を見下しているところがあった。作家としての質が、大手のレベルに達していないという見方だ。そのネガティブなイメージを変えるための試みとして、アマゾン出版社は『「週4時間」だけ働く。』のベストセラー作家ティモシー・フェリスを説得して『The 4-Hour Chef』という本を刊行したが、商業的には失敗だったと言われている。

それでもクラークがアマゾン出版社から新しいシリーズを出したのには、何らかの理由があるはずだ。何といっても、レモネードを作るプロなのだから。

シリーズの女性主人公の将来もさることながら、クラーク自身の未来が気になるところだ。

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