レベッカ・ソルニットらしくリニアではない回想録 Recollections of My Nonexistence

作者:Rebecca Solnit
Hardcover: 256 pages
Publisher: Viking
ISBN-10: 0593083334
ISBN-13: 978-0593083338
発売日:March 10, 2020
適正年齢:PG15
難易度:上級
ジャンル:回想録/エッセイ
キーワード:フェミニズム、人種問題、環境問題、政治、歴史、思想

それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)の翻訳を担当したのをきっかけに、レベッカ・ソルニットの作品が好きな人とソーシャルメディアなどで言葉を交わすことが増えた。そこで気づいたのが、ときに、読者によってソルニットという人物の捉え方が異なるということだった。

ソルニットは幅広いテーマについて書いてきた人物なので、それぞれの読者にとって歴史や文学に詳しい博学な思想家であったり、環境問題の活動家であったり、エリート層に踏みつけられている人々の代弁者であったり、現代アメリカを代表するフェミニストであったりする。また、東日本大震災の後に『災害ユートピア』でソルニットと出会った人々にとっては、普通の人々が持つ相互扶助の精神を読者に信じさせる社会活動家である。

すべての本に共通するのは、ソルニットは自分が強く感じることや興味を抱くことの中に自ら飛び込み、体験し、掘り下げ、幅広い知識につなげて自分の言葉で語るということだ。彼女の知識の大きな箱の中に入っているのは、ギリシャ神話であったり、おとぎ話であったり、アメリカ先住民族の歴史だったりする。そして、普通のジャーナリストのようなドライな解説ではなく、まるで口承伝説のように流動的だ。政治や深刻な社会問題を扱っていても、あくまで「ストーリーテリング」なのだ。読者がソルニットに惹かれるのはその部分だろう。

このように多様なエッセイを書くソルニットとはどんな人物なのだろうか?

2020年3月にアメリカで発売されたソルニットの回想録『Recollections of My Nonexistence』を読むと、少し謎が解ける。ただし、回想録と言っても、そこはソルニットのことだから、普通の回想録ではない。どんな子供時代を送って、どんな学校でどんな体験をしたとかいった説明はない。生まれた時から現在までストーリーがリニアに進むわけでもない。けれども、ひとりの女性が、どんな社会問題に対して強く感じ、何をどう書こうと思ったのか、その過程は感じ取ることができる。

家族問題なども抱えていたらしいソルニットは、高校には行かず15歳でGEDという検定試験に合格して高校卒業に相当する証書を得た。16歳からコミュニティ・カレッジに通い、17歳で4年制のサンフランシスコ州立大学に転入した。貧乏だった彼女は、19歳のときに自分の予算内で住めるアパートを見つけ、その時から黒人の住民が多い地区で暮らし始める。このときのソルニットは「自分が誰なのか、どうやってその人物になるのか、その答えをみつけようとする、まだ初期の段階だった」。けれども、この地域に住むことで、ソルニットは自分が特権階級の白人であることや、女であるというだけで命の危険にさらされるという現実を把握するようになった。

観察眼と分析力があるソルニットは、自分にはそれを文章で表現する能力があることも感じていた。その能力に磨きをかけるためにカリフォルニア大学バークレー校のジャーナリズム大学院に入学したのだが、生真面目な大学生よりも若くてパンクロック的な彼女には、あまり合わなかったようだ。同級生たちはニューヨーク・タイムズ紙の一面記事を書く硬派の記者を目指していたが、ソルニットはエッセイストになりたかった。

ソルニットが書きたいと思ったのは、「線形で論理的(linear and logical)なものよりも、直感的で連想的(Intuitive and associative)」、そして「もっと親密でリリカル(more intimate and lyrical)」な文章だった。とはいえ、硬派のジャーナリズムを学ぶのは決して無駄なことではなかった。どのようにして物事を探し出すのか、どうファクトチェックをするのかといったことを、ソルニットはここで徹底的に学んだのだ。

環境問題を書くようになったのにも、彼女の個人的な体験が関わっている。ソルニットがネバダ核実験場での大規模な反核抗議運動に初めて参加したのは1988年のことだが、その運動をオーガナイズしていたひとりが彼女の弟だった。

その間にも、ソルニットは「ハングリー」でい続けた。食べることよりも、愛されることや、物語、書物、音楽、権力にハングリーだったという。そして、何よりも「真に自分自身の人生(life truly mine)」と、「自分自身になること(become myself)」に対してハングリーだった。

飢えを自覚できるのは、お腹が空いているのに食べ物を手に入れることができない者だけだ。ソルニットが「真に自分自身の人生」を手に入れようとしてあがいているときに何度も邪魔したのが女性に対する社会の構造的差別であり、ミソジニー(女性蔑視)だった。若い女性は、独り歩きをしているだけでレイプされたり、命を失ったりする危険がある。しかも、そうなったときに責められるのは被害者の女性なのだ。仕事でも、女性というだけでまともに扱ってもらえないことがある。女性は、社会でnonexistence(非存在)になることを要求されるのだ。

私は1960年生まれで、1961年生まれのソルニットとはほぼ同い年だ。育った国は異なるが、同じような思いを抱えて生きてきた。学生運動がまだ盛んだった1970年代後半には、「社会正義」で拳を振り上げる男子学生たちが平気で女子学生に身の回りの世話をさせていたし、私が普段から考えていることを口にすると、男子学生から「難しいことを言うと可愛くないよ」と言われた。信用していた知人から性的暴力を受けたこともある。20代後半に企業で責任ある仕事をいくつも押し付けられていたときには、社長から「あなたの給与のほうが多いとわかると、男性社員が士気をなくすから」と仕事に見合う給与を拒否されたことがある。私の年代の女性が回想録を書くとしたら、多かれ少なかれ、ソルニットのようにnonexistenceとしての体験が交じることだろう。

こういった体験がない人には、そのとき私やソルニットが感じた怒りや、女として生きることによる独自の「飢え」を理解しにくいと思う。社会活動家としてのソルニットに共感を覚えても、フェミニストとしてのソルニットに違和感を覚える人は、たぶんこの「飢え」を体験したことがない人ではないかと思う。

飢えを体験するのはアンラッキーであり、ラッキーでもある。なぜなら、飢えの感覚なしには得られない意欲やエネルギーというものがあるからだ。そのエネルギーが人生で最も重要なチャレンジを何度も与えてくれる。読者から愛されるエッセイストとしてのソルニットも、数々の飢えなしにはありえなかっただろう。

大小交えた多くの体験と、そこから導き出す学び、それに基づいて取る行動、それらの積み重ねが人物を作りあげる。同じ体験をしても、それをどう捉えるのか、そこから何を学ぼうとするのかの選択で、最終的に異なる人物が出来上がる。

それがソルニットの書く、「あなたの人生は線ではなく、何度も、何度も分岐していく枝で描かれるべきだ(Your life should be mapped not in lines, but branches, forking and forking again)」ということなのだ。

人生をまっすぐに歩くことがどうしてもできなかった私にとっては、共感だらけの回想録だった。

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