10月5日、長崎生まれのイギリス人作家カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞した。
イシグロ氏は、1982年に27歳で作家デビューしてから62歳の現在まで長編小説は7作しか刊行していない寡作な作家だ。
しかし、『遠い山なみの光』(A Pale View of Hills)と『忘れられた巨人』(The Buried Giant)以外は著名な文学賞の最終候補になっており、1989年刊の『日の名残り』(The Remains of the Day)は権威あるブッカー賞を受賞した。イギリス貴族の主人への忠誠心と義務を優先して生きてきた老執事が、アメリカ人富豪の新しい主人を得て、過去に思いを馳せる『日の名残り』は、アンソニー・ホプキンス主演で映画化もされ、イシグロの名前は一躍世界に知られるようになった。
若い世代にアピールしたのは、第6作の『わたしを離さないで』(Never Let Me Go)だった。これまでの作品とは異なり、SFの要素が強いディストピア的な世界を舞台にしている。映画では悲劇的なラブストーリーが強調されているが、洗練された近代社会におけるヒューマニティの偽善やカフカ的な不条理の世界を描いた作品だ。
文芸の世界では、ジャンル小説は軽く扱われる傾向がある。だが、カズオ・イシグロは、歴史小説から犯罪小説、SF、ファンタジーまで異なるジャンルに挑戦してきた。そんなイシグロがノーベル文学賞を受賞したことには大きな意味がある。
ノーベル文学賞を与えたスウェーデン・アカデミーは、カズオ・イシグロの作品について「情緒的に強い力を持つ小説」であり「世界と繋がっているという我々の幻想に潜む深淵を明らかにした」と述べた。
小説では、読者がその世界を理解するためには語り手の視点に頼るしかない。カズオ・イシグロの作品は、いずれも語り手(あるいは主要人物)自身が自分を取り囲む世界をよく理解していない。いずれも、ある幻想のもとに世界と繋がっているわけだ。だが、物語が進むにつれ、語り手がこれまで信じてきた「現実」が表層的なものであり、その下に奈落の底のような真実が隠されていたことに気づく。そこで読者も足元をすくわれたような目眩を覚える。
カズオ・イシグロの作品は、『日の名残り』にせよ、『わたしを離さないで』にせよ、これまで何の疑問も抱かずに暮らしてきた日常や過去を異なる視線で見直させてくれる。そして、『忘れられた巨人』では、忘却の価値についても。
読者の感情に直接訴えかけてくれるような小説家がノーベル文学賞を受賞したことを心から嬉しく思う。