作者:Barack Obama
Hardcover : 768 pages
ISBN-10 : 1524763160
ISBN-13 : 978-1524763169
Publisher : Crown
発売日:November 17, 2020
適正年令:PG15(高校生以上)
難易度:7/10(日本で英語教育を受けた人には読みやすい文章)
ジャンル:回想録(回顧録)
キーワード:アメリカ大統領、ホワイトハウス、政治、バラク・オバマ
以前にも書いたことだが、アメリカでは「回顧録」は非常によく売れるジャンルだ。まったく無名の人のものでも、それが興味深い人生であれば大ベストセラーになる。大統領と大統領夫人は、引退後にホワイトハウスでの体験を含めた回顧録を出版し、それがベストセラーになるのがほぼ「決まりごと」になっている。ビル・クリントン元大統領の妻であるヒラリー・クリントンの回顧録に関してはやや例外だ。2003年に回顧録の『Living History』は最初の1ヶ月で100万部売れてノンフィクションとして最高記録を作ったが、その当時のクリントンは元大統領夫人だけでなく、現役の連邦上院議員だった。2016年の大統領選挙に破れた後の『What Happened』も発売後しばらくはベストセラーのトップだった。だが、クリントンの回顧録よりもさらに売れたのが、2018年11月に発売されたミシェル・オバマ元大統領夫人の回顧録『Becoming』だった。2019年にベストセラー1位を続けただけでなく、発売から1年以上経っても売れ続けた。ブックスキャンによると、2020年1月5日から11月14日までの約10ヶ月間に全米で最も売れた本の23位に入っている。
妻のミシェルよりも回顧録を出すのに時間がかかったのがバラク・オバマ元大統領だ。2020年11月の大統領選挙の後にようやく発売された回顧録『Promised Land』は、発売された最初の週に約83万5000部(ブックスキャンによる)売れ、ベストセラーのトップに躍り出た。1週間ですでに今年のトップ10位に入る売上数である。 Promised Landは700 ページ以上もある大作であり、ハードカバーは持ち上げるだけで腕の運動になるほど重い。それなのに、これはただの「前編」なのだという。
この前編では、彼の生い立ちからミシェルと出会って結婚するところまでは、小説の「プロローグ」か「サマリー」程度のシンプルさだ。ミシェル・オバマの回顧録で2人の出会いから結婚について知った読者はがっかりするかもしれない。この回顧録が勢いづいてくるのは、オバマが上院議員に立候補することを決めるあたりからだ。そこから2011年のウサマ・ビンラディン殺害の作戦に成功したところまでが「前編」である。「後編」がいつ出版される予定で、何ページになるのかは、今の時点ではたぶんオバマ本人もわかっていないだろう。
これほどページ数が多い本だが、まったく退屈はしない。オバマが非常に優れた書き手だというのが大きな理由だが、私たちが報道などで知っている歴史的な出来事を、「あの時には実際にはこのような事情から決断がなされたのだ」と内側から解説してくれる。政治を追っていた者にとっては、そこが興味深い。
また、オバマ独自の文章もこれまでの大統領とは微妙に異なる。誰でも、自分が下した決定や言動を説明するときには正当化(言い訳)したくなるものだ。厳しい批判を受ける立場にある大統領にとって、引退後の回顧録はその機会を与えてくれるものだ。だが、オバマの文章からはその衝動をさほど感じない。自分の言動とそれに至る背景を説明してはいるが、そこに「批評者」としての第三者的視点が必ずと言って良いほど現れる。
たとえばノーベル平和賞を受賞したときのことだが、喜ぶどころか「何に対して?」と驚き呆れた反応をしている。そして、自分に対する公のイメージが空気を入れすぎた風船のように過剰に膨らんでいることを自覚し、期待と現実とのギャップの危うさを憂える。人気の頂点にある時に、それが大統領として自分が仕事をするときに逆効果になることをオバマは冷静に予知していたのだ。
そういった部分を読んでいるとき、オバマが現役時代に「aloof」だと批判混じりに評価されたのを思い出した。aloofとは、周囲の人との間に心理的な距離を持っている人を表現する形容詞であり、場合によって「超然としている」というポジティブな意味にもなるし、「お高くとまっている」というネガティブな意味にもなる。自分の言動についても冷静に分析や評価をするオバマは、周囲の人々だけでなく、自分自身との間にも距離を持つaloofな人物なのだと思った。ストレートに自分の考えを表現し、会う人を即座に溶け込ませるようなミシェル・オバマは、そんな夫に対して時折苛立ったのではないかと想像した。
ミシェル・オバマの回顧録を読んだ人は、二人の出会いから結婚、子育ての部分で両者の視点の違いを楽しみにしていたと思う。筆者もそのひとりだ。ミシェルは経済的に独立し、働く女性として大きな達成をすることを夢見ていたが、「社会を変える」ために自分の時間と労力をすべて費やしてしまうバラクと結婚してしまったがために、収入と家事育児の責任を負うことになってしまったのだ。それについて、オバマはどう感じているのか知りたかった。
ところが、ミシェルの視点では重要な出来事だったこれらの部分は、バラクの記憶ではあまりにもあっさりしていて肩透かしをくった気分だった。政治嫌いの妻が払い続けた犠牲については触れているが、それは「バラク・オバマ物語」の添え物でしかない。上院議員になったばかりだというのに、再選を目指すのではなく、大統領に立候補することを考慮するオバマにミシェルが「いつになったら十分になるの?」と非難する場面がある。オバマは「これは単なる見栄なのだろうか?」と自分を問い詰めるし、妻に対しては彼女が嫌ならやらないとも言う。けれども、最終的には妻を説得して出馬する。バラクは家族を経済的に支えないだけでなく、選挙で借金まで作ってしまう。選挙も議員生活も忙しいので、家に戻って家族に会うこともほとんどない。家族のニーズより自分の野望を優先する夫にムカムカしながらも、「この人は私が何を言ってもやりたいことをやってしまうから仕方ない」と受け入れて支えてしまう妻……。オバマ家では、たぶんこういった光景が何度も繰り返されたのだろう。そのくらい自己中心的で説得力がないと「黒人として初めてのアメリカ大統領」にはなれない、ということなのだろう。
とはいえ、オバマの文章の端々からは、妻のミシェルに対する尊敬や愛情がしっかり伝わってくる。直接褒めている文章よりも、2人の簡単なやりとりから、ミシェルが「妻」だけでなく「親友」なのだと感じられる。 また、aloofという評判にも関わらず、オバマは決して冷たい人物ではない。非常に公平だ。自分の言いなりにならない者なら側近であってもツイッターで侮辱する現役大統領とは逆に、勇気ある行動を起こした議員や閣僚、アドバイザーたちをしっかりと評価し褒めている。それには、2008年の民主党予備選で苦い戦いを繰り広げたヒラリー・クリントンや、自分とは信念が異なる共和党員も含まれる。イラク戦争で激しく批判したジョージ・W・ブッシュ元大統領についても、政権引き継ぎのときに家族ぐるみでオバマ家を暖かく迎えたことを良い思い出として書いている。しかも、ブッシュ政権時代に大統領を嫌っていたリベラルですらブッシュ元大統領に好感を抱かずにはいられないような内容だ。
いった内容を読んだ後に本書から感じたのは、先に書いたaloofよりもsoberという表現だった。soberには「酔っていない(しらふ)」、「冷静」「地道」という意味があるが、大統領選挙、ノーベル平和賞、医療保険制度改革、ウサマ・ビンラディン殺害作戦などで大きな達成をした時でも、オバマは勝利や自分の偉大さに酔うことはない。常に第三者の視点で冷静に批評、批判し、「次」に来ることを予想して憂えている。そのsoberさは現大統領のドナルド・トランプと対極なのだが、一部の国民にとってはそれが「弱さ」に見えたのかもしれないと思った。
ところで、日本についての記述だが、これだけのページ数がある本なのにたった1ページである。しかも首相については「やや風変わりなところがあるかもしれないが感じが良い人物である鳩山首相は、3年未満で4人目の首相で私が政権に就いてから2人目(A pleasant if awkward fellow, Hatoyama was Japan’s fourth prime minister in less than three years and the second since I’d taken office)」と軽く触れただけだ。「A pleasant if awkward fellow」の部分を「感じ良いが厄介な同僚」とか「感じは良いがつきあいにくい」と翻訳した日本の記事が初期に流通したために「オバマは鳩山由紀夫元首相について『扱いにくい』『厄介だ』と批判した」という印象が広まってしまったようだが、それはうがち過ぎだ。
アメリカ人がawkwardという表現を使う典型的な状況は、何年も会っていない人と道でばったり会って親しげに名前を呼ばれたのに相手の名前が思い出せない時とか、Eメールを間違った相手に送ってしまった時とかだ。人物に関しては、「その場の雰囲気や状況といったニュアンスを察知できない人」つまり「空気が読めない人」についてよく使う表現だ。英語ネイティブのビジネス書作家でもある筆者の夫も「つきあいにくい人物だと思ったらオバマははっきりとそう書く」と言うが、私も同感だ。ボキャブラリーが豊富なオバマのことだから、もっと素晴らしく皮肉な単語で「扱いにくい奴」と描写してくれたことだろう。「厄介だ」と言われるほど重視されてはいない。
それとは対照的に、オバマが当時の天皇皇后両陛下(現在の上皇と上皇后)に対して抱いた好意や尊敬の念は、文章からしっかり伝わってくる。オバマがお辞儀をしたことについてアメリカの右派が「反逆的だ」「裏切り者」と批判したことについては、「アメリカの右派のこれほどまで大部分が、いったいいつ、すっかり正気を失うほど怯えて自信をなくしたのだろう」と呆れを隠していない。
オバマの回顧録でも明らかなように、アジアでの日本の存在感は薄くなっている。数多く出ているトランプ暴露本でも、日本についての記述は片手で数えられるほどしかない。筆者が記憶している中では、最近の回顧録の中で日本を重視する記述があったのは、2014年刊行のヒラリー・クリントン著『Hard Choices 』だった。
オバマ政権で国務長官になったクリントンが真っ先に訪問したのが日本だった。クリントンは、いっときはアメリカを脅かす経済力を持っていた日本の経済が後退している懸念を説明した後で、「(それでも)日本はいまだに世界最大の経済大国のひとつであり、世界的な金融危機に対応するための主要なパートナーである。この地域(アジア)における我々の戦略の礎が(日本とアメリカの)同盟関係だと(オバマ大統領の)新政権がみなしていることを強調するために私は最初の訪問先として東京を選んだ」と書いた。少なくとも、クリントンは2009年当時には日本をそれほど重視していたのだ。日本に関して言えば、オバマの回顧録に書かれていることよりも、1ページしか書かれていないという国際的な影響力の低下のほうが問題ではなかろうか。
バラク・オバマは、Promised Landの前に2つの回顧録を書いている。最初の『Dreams from My Father』は、彼がミシェルと結婚した直後に書いたものであり、政治家になる前のものだ。2作めの『The Audacity of Hope』はオバマが連邦上院議員だった2006年に刊行されたものであり、2004年の民主党全国大会での有名なスピーチをベースにしている。
最初の回顧録では、まだこれからの人生で何を達成するのかわからない若者の葛藤や、夢と不安を感じる。2冊めのオバマは、自分だけでなく、多くの人々に夢と可能性を信じさせる力を持つスーパーマンだ。だが、3冊めのオバマは、多くの障壁にぶつかり、自分にできることの限界を自覚し、そのうえでベストを尽くそうとする実務家である。
これらの回顧録をまとめると、オバマという類まれな人物の成長と冒険のサーガになる。筆者は「ハリー・ポッター」シリーズの最終巻である第7巻が発売される直前に第1巻から6巻までを読み直したのだが、本書『Promised Land』の後編が発売される前には、同じように『Dreams from My Father』から順に読み直そうかと思っている。全部読み直すのには時間がかかりそうだが、前編を読んだ限りでは、その価値はありそうだ。
P.S.
ハードカバーには写真が入っているのがいいが、ページ数の多さにおびえてしまう人もいるだろう。そういう方には、オバマ自身が読んでいるオーディオブックがオススメ。声を聴いているだけで、ほっとしてくる。